釣洋一先生 旧前川邸歴史コラム 第4回:古高俊太郎拷問の土蔵
釣洋一先生の歴史コラム、第4回目の今回は、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎が拷問された土蔵について書いていただきました。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
▲池田屋事件当日の時刻表▲
(表をクリックすると拡大画像が見られます)
元治元年6月5日の払暁といいますから、往時の暦でいいますと、6月4日の夜という事になります。武田観柳斎が率いた新選組が四条木屋町の桝屋喜右衛門宅を急襲。主を捕えて屯所へ連行しました。そして、この土蔵で拷問を受けた喜右衛門は、古高俊太郎正順(まさやす)という勤皇家でした。
彼は身分不相応な兵器、弾薬を貯蔵し、押収した書類には容易ならざる企てが認められていました。その一つに風の強い日、風間身に火を放って参内する尹宮(いんのみや◆中川宮)と松平肥後守容保を襲撃するというものでした。
この大陰謀を阻止した池田屋騒動での活躍は、ここで語るまでもありません。
古高俊太郎の自白は、新選組は勿論のこと幕府にとっても大スクープとなりました。
一夜にして勇名を馳せた新選組大奮闘の池田屋騒動の端緒は、土方歳三の行った古高俊太郎への拷問といわれています。
田野さんの案内で中庭に立つ二つの土蔵の左側の土蔵の中へ入りました。その瞬間、背筋にゾクッと戦慄が走りました。伝えられるところでは、古高の足の甲から足の裏までブスッと五寸釘を打ち貫いて、足首にロープを縛りつけて逆さ釣りにしました。足裏に突き抜けた五寸釘に百目ろうそくを立てて火を点します。溶け落ちる熱いろうそくが釘を伝わって傷口に流れ込みます。それまで頑として口を割らなかったさすがの古高も遂に驚くべき討議の内情を吐きました。
その情報は京都守護職並びに会津藩へ急行されると共に隊士たち34人が三々五々と四条祇園会所へ奔りました。そこで制服に着替えた隊士たちは、二組に分かれて謀議所への探索に出向きました。
近藤勇は沖田総司、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、谷万太郎、谷昌武の六人を連れて池田屋へ斬りこみました。一方、土方歳三は斎藤一、井上源三郎ら26人を率いて大仏方広寺から祇園を探索しながら池田屋の近藤らに合流しました。
田野さんは、古高の拷問シーンを再現させるかのように二階の床板を6枚外して下さり、ロープを一階まで下ろして下さいました。
その光景を目の当たりにして、私は凄惨な古高拷問のシーンで想像したのは、田野さんがロープを引き上げた時でした。ロープに吊るされた古高の足は二階にあって、胴から上は一階にあり、一、二階の隊士が同時に鞭を打ちます。二階では古高の向う脛を打ち、一階では古高の背中に鞭を打ち込みます。それでも古高は口を割りません。業を煮やした歳三は次の手段として前述のように五寸釘の拷問をしました。
歳三のこの行為をもって、極悪非道の男と見るか、仕事に忠実な男と見るか、人それぞれに評価の分かれるところと思います。ただ、<<燃えよ剣>>で歳三ファンになった女の方々は、五寸釘の冷酷な歳三を知らないから信じないかもしれません。--司馬遼太郎は冷徹な歳三は描いても冷酷な部分は削り落としました。五寸釘の話は子母澤寛の創作と思いたいところですが、永倉新八が<<新選組顛末記>>で云い残した話ですから仕方がありません。そんなおぞましい場面を演出したのも、洛中を火の魔手から救うための制裁ですから、単に目的のためには手段を選ばない男という批判は当たりません。
王城の地に火を放つという大罪を犯そうとする西国浪士こそ、責められるべきで、それを阻止した手腕として認められるべきことではないでしょうか。--その歳三の心情を考えると、足が竦み、胸が張り裂ける思いでした。
そんな時、田野さんに、<<釣さん、古高のように釣り下がってみませんか?>>と冗談半分に云われました。
見たり聞いたり試したりを身上とする私は<<ハイ>>と二つ返事をしたのですが、<<まあまあ>>ということで、実現しませんでした。
そして、この場で最後に印象付けられたのは、天井の梁に設けられた滑車が軋んだ<<ギィーッ>>という音が、古高の悲鳴に聞こえたことでした。
本当に凄い史的現場に立たせていただいた感激と感動は36年経った今も昨日のように思い出されます。その後25回程見学させていただいておりますが、その都度、感激を新たにしております。