古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵に足を踏み入れる。
入り口の扉は四重になっており、厳重である。中は驚くほどに広い。床板の一部が外れるようになっており、ここが地下の隠し金庫として利用されていたようだ。
意外と幅広で段差のある箱階段を登って、二階に上がる。
一階から二階に通じる階段には引き戸がついており、ここを閉めると完全に階を分断することができる。
二階の床の一部も開けられるようになっており、梁からは、一階、そして地下の金庫まで通じる荷物昇降用の荒縄が吊るしてある。ここに元治元(1864)年6月5日の朝、長州派の薪炭商・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が吊るされて土方歳三らから拷問を受けた。しかし、逆さ吊りにされても古高はいっこうに口を割らない。五寸釘が打ち込まれ、蝋燭が垂らされても、彼は古高俊太郎=枡屋喜右衛門の名前しか認めなかった。(計画は、枡屋の地下倉庫から見つかった武器弾薬や書き付けによって発覚した)
酷い拷問のようだが、当時としてはこれでも序の口だったらしい。下の者にやらせてもいい仕事を副長自らがやる。殺してもいいのにそこまではやらない。
古高にしても、どんなに拷問されても、計画の詳細や仲間の浪士達が集まる場所までは吐かなかった。土方と新選組、古高と過激派浪士達、どちらが正しいということはない。ただ、自分達の信念を貫いた行動だった。
拷問の行われたのは旧暦の6月5日。今で言う7月。暑い最中の出来事である。
さぞかし暑かったろうと思いきや、蔵の中は意外にも、ひんやりと涼しい。
蔵の窓を開けると、網目越しに八木邸がよく見える。
文久3(1863)年9月の芹沢鴨暗殺の日には、土方らはこの土蔵の二階から八木邸を見張っており、芹沢一派が島原からの帰還し、部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったという。
新選組史に残るドラマを生んだ蔵は、今なお当時の姿を留め、大切に保存されている。 |
重厚な扉 |
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隠し金庫 |
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二階へ |
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向かいの八木邸 |
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拷問が行われた二階 |
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