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史跡紹介
山南敬助切腹の間

新選組総長・山南敬助が切腹した部屋は、広い八畳間だ。
室内照明のせいか、ここで切腹が行われたとは想像し難い明るい雰囲気がある。

山南敬助は仙台出身。北辰一刀流免許皆伝。
文武両道に優れた人物で、なおかつ親切者として壬生の住人からも人気があった。
山南は元治2(1865)年2月、書き置きを遺して脱走を図った。
原因は屯所の西本願寺への移転問題や副長土方との対立、健康上の問題など諸説があるが、真相は不明。
彼は大津宿にいた所を沖田総司に見つけられ、翌日屯所に連れ戻されたという。

「局ヲ脱スルヲ許サズ」

鉄の隊規にのっとり、2月23日、山南に切腹が申し付けられた。(山南は脱走はしていないとの説もある。)

切腹前、山南は、恋人の島原の天神・明里と格子窓越しに別れを惜しんだと伝えられている。坊城通に面していた格子窓は、現在は取り払われ、杉板張りの壁となっているが、当時の雰囲気は古写真で偲ぶことができる。

介錯は山南本人の希望で、懇意にしていた沖田がつとめた。見事な切腹だったという。
山南の葬式には、隊士だけでなく壬生界隈の人々も大勢参列してその死を惜しんだという。
その後、山南家の家紋と寺紋が同じだったことから住職と親しくしていたという光縁寺に葬られた。享年33歳。

山南自刃の間は、今は仏間として使われている。

山南家の家紋 山南家の家紋
「丸に右離れ三つ葉立葵」
山南敬助が切腹した部屋
山南敬助が切腹した部屋。
右奥に山南が明里と別れを惜しんだ出窓があった。
右奥に山南が明里と別れを惜しんだ出窓があった。
現在、出窓は外され、杉戸張りになっている。
現在、出窓は外され、杉板張りになっている。
 

納戸の抜け穴

土間から上がった部屋の左手に納戸がある。
ここの納戸の床板が外れるようになっている。
現在はここが埋められているが、幕末は坊城通りへ通じる抜け道だった。
前川邸を屯所として以来、新選組は邸内を徐々に要塞化し敵の襲撃から逃れられるように改装していった。
この抜け穴もそのひとつだろう。

納戸の床板を外すと、坊城通りへとつながる抜け道があった。(現在は埋められている)
納戸の床板を外すと、坊城通りへとつながる抜け道があった。(現在は埋められている)
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