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新選組との関係
文久3(1863)年から約2年間、壬生の前川荘司邸は、新選組の屯所となった。
前川邸の屋敷の総坪数は443坪。家は平屋建てで、建坪が273坪。部屋は12間あり、146畳という広い家だった。
当時、前川本家(京都油小路六角)は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との密接なつながりがあった。
上洛する浪士組(後の新選組)の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、前川本家が、その仕事を任された。前川本家では、壬生の地が、京の町はずれにありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから、自分の身内である前川荘司の屋敷を提供。浪士組は前川邸を中心に八木邸、南部邸(現存していない)、新徳禅寺に分宿した。これが新選組の出発点となった。

文久3年3(1863)月3月、浪士組が会津藩御預となった頃から、前川邸は本格的に屯所として使われ始め、前川荘司一家は、油小路六角にあった前川本家の両替店への避難生活を余儀なくされた。
こうして前川邸を手に入れた新選組は、討幕派からの守りを固めるため、屋敷に手を加え、城塞化していった。屋敷を取り囲む塀は、ほとんどが板塀から土塀に改築。長屋門には監視のため、元は西側にしかなかった出格子を東側にも取り付けた。そして、母屋の納戸からは、坊城通りへ脱出するための抜け道も作られた。
中庭と井戸 山南敬助切腹の間 納戸下の抜け穴
中庭と井戸 山南敬助切腹の間 納戸下の抜け穴
屯所となった前川邸では、新選組にまつわる様々な出来事が起こった。
文久3(1863)年9月18日、土方らは芹沢一派が島原からの帰還し、部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったという。そして、翌日の芹沢鴨の葬儀も前川邸で行われたと伝わっている。
それから間もない9月26日、長州の間者・御倉伊勢武と荒木田左馬之介が、前川邸の縁側で月代を剃っていたところを斎藤一と林信太郎に斬殺され、楠小十郎は門前で原田左之助に殺害された。その年の暮れ、芹沢派の生き残り・野口健司が前川邸の綾小路通に面した一室で切腹した。明けて元治元(1864)年6月5日、池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷問が前川邸の土蔵で行われたのは有名な話である。そして翌元治2(1865)年2月23日、総長・山南敬助が恋人・明里と格子戸越しに最期の別れを交わした後、坊城通に面した一室で切腹した。
雨戸の落書き
雨戸の落書き
このように、事件だけ追ってゆくと血生臭い出来事ばかりがクローズアップされがちだが、普段は隊士達の平穏な日常があったに違いない。
雨の日は土間で剣術の稽古をしたり、晴れの日は土蔵横に砂山を築き砲術の訓練をやったり、玄関前で誠の旗を旗めかせたり、広い部屋で上下の区別なく雑魚寝をしたり、夜、厠へ行く時、寝ている隊士の足を踏みつけたり、蹴つまづいて大騒ぎになったり、はたまた酒に酔って出窓に斬り付け刀傷を残したり、雨戸に落書きを残したり・・・。
そんな思い出が沢山詰まった前川邸を、新選組が「人数が増えて手狭になったので西本願寺に屯所を移転する」という理由で出て行ったのは、元治2(1865)年3月10日のことだった。
この時、迷惑料として、10両が支払われたという。
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